2007年11月3日土曜日

鬼灯草紙 巻ノ弐

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神主の叫びを最後に、私の記憶は虚ろなものになった。気がついたら自宅にいて、神主か誰かに殴られたらしい痣と痛みだけが私に何かを悟らせていた。
そしてその日を境に、依縁の姿を見る事はなくなった。結局祭の儀式は取り止めになり、警察に捜索願を出した依縁の父はその結果を知ることなく翌日に自殺した。遺書はなく理由は分からないが、多分過疎化しつつある土地唯一の観光行事としての鬼灯祭は決して失敗してはいけないもので、その重圧が彼を蝕んでいたのだろうというのが周りの勝手な見解だ。依縁も警察の捜索も空しく何の手掛かりを残さないまま消えて、皆は次第に神社を記憶の底に埋め、私だけがその事件に取り残された。
そんな土地から一刻も早く離れるため、それからの私は勉強に没頭し、親の制止を振り切って都会の高校へと逃げていった。10年がたち、職にも就いて生活がようやく安定した頃、私はあの村が既に廃村となっていたことを知った。

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砂利が立てる音は昔と変わらず、久しぶりに履いた運動靴に心地良い感触を感じさせていた。
夏の陽射は相変わらずで、私は木陰へ避難すると小さく溜息をついた。10年間という年月は私とこの村にとって充分なものだった。高校入学を最後に連絡とっていなかった両親は既に私を勘当したと認識しているため、どこにいるか分からないし死んだかどうかさえも知らない。何とも親不孝な子供だと自分でも思うが、別に後悔はしていなかった。
今まではあの頃の虚ろな記憶が恐怖だけを頭に植え付けて私の帰郷を思い止まらせていたが、そろそろ覚悟を決めて過去を知るべきだ。それに依縁を怖いままで放っておくわけにはいかない。彼女は今、普通の生活を送っているのだろうか。まだあの神社の中で彷徨っているのか、それとももうすでにこの世界から…。
私は思考を中断し、かつて神社だった場所へと歩きだした。結論はまだ出せないし、出したくない。この村に宿泊施設などあるわけがなく、この土地に居られるのは時間が限られている。出したくなくても出さなければいけないし、そのためにここまで来たのだ。
私は息を整え、長年整備されずにいたため荒れ果てた道を歩き出した。
記憶を辿りながら歩くなか、この村が地図から消えたという現実について考えた。元々あの頃から廃村となることには必然を感じていたが、実際その未来に直面すると意外にも驚きの感情がありそのことに私は驚いた。親の死は必然ながらも実際に死んでしまうと驚く、というものに似ているこの感情は私に村へ愛着があることにも気付かせる。そういえば、昔はこの村と共に死ぬことを考えていた。それなのに今ではここを恐れ、無様に生き残り、そして資格もないだろうに再び土を踏んだ私はこの村という存在にとって何なのだろう。
物思いに更け続けた私は、ふと見上げると目の前には所々朱が剥がれ落ちた鳥居が聳えたっていることに気がついた。常に掃除されていた階段は雑草が生い茂り、鳥居の側にあった石灯籠は雨風のせいか崩れてしまっている。神社裏の竹林は手入れされなかったからか神社を囲むように伸び、その空間を他の全てから遮断していた。
見ただけで、身体が固まった。息は荒くなり、足は震えて動こうとしない。そんなにも私は恐れているのか。何にとは言わない、多分全てのことになのだろうから。不安は体中を巡りあの時のように身体を支配する。
けれど私は一歩踏み出した。震えながら小さく一歩、私がいることを知らせるように一歩、決意を固めるために大きく一歩。私は結末を知りために此処に来た、たとえ無意味な行為でも自分の身に危険が降りかかるような愚かな行為でも責任に近いものが私を動かしている。それは恐怖などでは止められない物だった。

境内は外と同じように草木が好き勝手に方向に伸び、社や依縁の家に絡まっていた。パッと見るだけでは分かりにくかったが、建物はまだ形はしっかりと残っていたので私は容易に神社裏への道を見つけることができた。邪魔な葉や蔦を足で踏み倒しつつ暗闇に覆われた神社裏へと踏み込んでゆく。まだ昼間だというのにそこは暗く、わずかな木漏れ日はほとんど地面に届かず空中にとどまっていた。念のために持ってきていた小型の懐中電灯を取り出して石畳の道を照らす。
懐中電灯の丸い光を見て、あの時の満月を思い浮かべる。今のように暗い闇の中、満月と行灯の灯に導かれ、私と依縁は鬼灯まで辿り着いた。虫の音しかない静かな世界に足音だけが響いていた。

そして今、この私も。

夏の終わりを告げるあの鬼灯が、あの時と違い小さな祠を越えて神社裏の開けた場所全てを覆い尽くしていた。この空間のみ竹は無く、鬼灯の朱だけが私を飲み込んでいる。自然繁殖でこうもなるのか?竹に絡まり天高い所まで及んでいてまるで朱のドームに入った私にあの頃と同じ怖気が沸いてきた。
(そうだ、依縁…)
居るかどうか分からないけれど、とりあえず辺りを見渡す。周りを支配するのは朱赤紅緋橙………
神社裏の道はこの鬼灯の間で終わっている。祠の先がないか腫物を触るように鬼灯を退かして確かめようとするが鬼灯の向こう側には鬼灯しかない。
「依縁ー!!依縁ぃー!!?」
声の限りに叫ぶ。木霊した私の声は空しく空へ溶け込んでいき、それに対する返事は返ってこなかった。責任が少しずつ恐怖に呑まれてゆく。まだ、まだ終わってはいけないのにこの異常な空間のなかでトラウマの恐怖と現在の恐怖があいまじる。まだ何も判ってはいないというのに、依縁も見つけてはいないというのに。
…いや、依縁は多分見つからないだろう。恐怖によるものもあるけれど、なにか直感めいたものが私の中にはあった。多分もう彼女はおろかこの村に住んでいた人たち全員に会うことはない。
それを感じた時、私は惚けながら思わず呟いた。
「なんだ、これでは私が神隠しされたようではないか」
それに対しての答えは聞こえることなく、ただ風に揺られた鬼灯がさわさわとざわめいただけだった。


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倉稲詩乃はその後小さく黙祷を誰かに向けて捧げ、引き返していった。
残ったものはただざわめいた鬼灯と揺らめいた笹の葉と古びた祠と、その背後に隠れたように蹲った白骨だった。
するとどこからともなく白い狐が現れた。目尻には勾玉のような模様があり目は限り無く細い。
詩乃が佇んでいた場所に視線を向け、詩乃が去った方向に顔を向けるとくすり、と微笑んだ。

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