2008年1月5日土曜日

十六夜御伽話 参

逃げるためだけだったのかもしれない。自分の名の重さに耐え切れなかった弱さを抱えたまま、俺は廃色をしたビルの中へ喰われていった。
そこに待ち構えていたのは荒んだ世界にふさわしい魔王のような女だった。彼女が持つ全てが常識では有り得ないもので、常識ではなかった俺は成す術もなく彼女のもとに納まった。非常識すぎて常識、そんな彼女に俺は救われた。

※※※

遠くから微かな声が聞こえる。深淵に浮かんでいる俺の意識はその声に反応するのを拒否したので俺は体を動かさずにいた。
「って起きろ阿呆棺凪!割りますよ頭蓋骨!」
「いやそれはタンマつか痛い痛いマジで掴まないで割れますから冗談抜きで!!」
ゆらゆらとしていた俺の意識は頭蓋骨からの危険信号を受信したことにより急上昇して慌てながら身体を動かした。目を開けると薄く青筋をたてた社長が俺の頭を鷲掴みにしているのが見える。
けどちょ、なんか頭からピキッて音が、ピキッて危ない音がしたんですけど。
「棺凪くん?私も眠いの我慢してこんな寒い夜の中犯人の家に張っているんだよ?なのになんで君はそんなに健やかに寝息を立てていたな?」
「すいません許して下さい気がついたら寝ちゃってましたんでこの睡眠時間分はちゃんと起きてます」
当たり前だ阿呆。
なんて言われると反論できないわけで。俺はよっこらせと親父くさい掛け声と共に横たわっていた枝から隣の枝へ飛び移った。

今俺と社長は犯人の自宅近くの常緑樹のなかにいる。役割分担を終えた後、装備を確認するとすぐに行動を起こした。今回動くのは俺たちだけなので、幸帆さんと上条奏は新しい情報が入ったときの連絡係として会社に残っている。
幸帆さんから教えられて驚いた、いややっぱりかと思ったことは既に刀切一族率いる警察が犯人特定一歩手前にまで来ていたことだ。
しかし後一個と言うそれが掴めないため、この会社が頼られたらしい。現行犯確保という危険だが手っ取り早い方法だ、と彼女は言っていた。多分社長はその意を汲んでこの依頼を受けたのだろうとも。
俺たちが犯人の自宅、無駄にデカくてあからさまに金持ちを強調している家についたのはその日の夕方で、人目につかないように上った樹には社長に借りをもった友人が俺たちの到着を待ちわびていた。それはもう俺たちを視線で射殺せる勢いだった。何回か会ったことのある人だけど今回は格別機嫌が悪かった。
てめぇいっつもいっつも人が約束してる日に限って物事頼むな借りは充分返しただろもう金輪際私の目の前に現れるなこの悪魔外道鬼畜
と捨て台詞を社長に全力投球した後その人は三階分はあるこの常緑樹から飛び下りて行ってしまった。自称鬼である彼女も有り得ないけど殺意をあらわにしたその人の言葉を爆笑で受け流す社長はもっと有り得ないのでやっぱり彼女は人外ではないかと思う。
そうしてかれこれ五時間ぐらいたっただろうか、何回目かになるか幸帆さんとの定時連絡を行うとそろそろ犯人の活動時間が近付いていた。
「今日は活動しないんじゃないですか?全然動き出す感じじゃないんですけど」
「いや、ここんところ犯行のペースが上がってきてるんだ。前の殺しからもう五日になるから今日起きてもおかしくはないね」
今更だが、今回の仕事は結構根気が必要のようだ。
社長と交替で仮眠を取りながら、ひたすら犯人の気配を窺っていた。犯人がこの家に入っていることは先程の社長の友人が確認しているし、その気配が動いていないことは今まで張っていた俺たちが分かっている。
気配を感じるのは、水面を視ることと似ていると俺は解釈していた。何もない水面に一滴落ちて波紋を造り出す。波紋に違う揺れを感じたなら新たな気配が、波紋が違う位置に表れたなら気配が移動したことになる。眺める俺は水面なのか波紋なのか、何なのか見失いかけることもあるけれどそれさえも心地よいと思えるぐらいその世界は静寂と平和に囲まれていた。
そうして俺が水面の世界に浸っていると、今まで一定のリズムを刻んでいた滴が急に荒々しいものに変わった。波長は同じなのに津波のようにざわめき水面を乱してゆく。人が造り出すものではないそれに俺は身を引き締めながら、仮眠をとっている社長を揺さぶり起こそうとした。
「起きてるよ、それよりも集中して。相手がどこから出るのか分からない、まさかとは思うけど見失ったらお終いだよ」
「了解」
神経をさらに研ぎ澄ましてその家全体細部に至るまで探り出す。ゆっくりと、濃密な殺気を撒き散らすソレは正面玄関へと向かってゆく。今、ドアノブに手をかける。回す。引く。姿を、現す。
《緊急連絡、入れます!行動は起こさないで下さい!》
って、うおぉ!?
突然耳元から上条奏の声が響き、俺の緊張の糸は一刀両断された。先の定時連絡以降その存在を忘れていたイヤホンから彼女の焦った声が聞こえてくる。イヤホンをつけていない社長に身振り手振りで伝えると俺は奏の話に耳を傾けた。
《棺凪くん、聞こえますよね?そろそろ犯人の行動開始時間だとは分かっているんですが、一応聞いて欲しいことができたので…》
「聞こえる。今ちょうど動き出した所だ、尾行を続けながらでもいいか?」
《構いません、ちょっと矛盾というかおかしいと個人で思ったことなので》
「矛盾…?」
《単純で、忘れがちなものなんですが。棺凪くんは彼の殺人方法は分かっていますよね?ハンマーで相手を殴り倒した後、意識があるない関わらず正面から皮膚を切り開いて内蔵を取り出すという方法です》
「ああ、気分がおかしくなるような方法だ」
《それは犯人が返り血を浴びなければならない方法でもあり、犯人自体意図的に血を浴びるような切り方をしていると幸帆さんが言っていました。彼女、死体を実際に見せてもらっただけでナイフは何を使ったかまで理解しちゃったんです》
「まぁ、刃物狂の幸帆さんならおかしくはないだろ…」
そう、相沢幸帆の唯一と言える欠点は刃物に関することに尋常ではない反応を示すことだ。彼女の持つスクラップ帳は全て刺殺によるもので埋まっているし、毎月ナイフマガジンとやらを経費で購入しているためか名工の名前は一通り言えるうえ、目利きだ。一番困ったことはそのジャンルの話題となると小一時間は恍惚とした表情で語り出すことだろうか。
《それで、おかしいと思ったんです》
「…なにが?」
《犯行時間は確かに深夜です。目撃情報がないというのも納得できますが、それは最初、少なくとも二回目までが限度です。有り得ないんですよ、もう五回も繰り返しているのに犯人像が浮かび上がらない、目撃情報が出てこないというのは》
犯人は動き続ける。時たま電灯の光をうけ刃は妖艶の瞬きをつくりだす。
《返り血を浴びたのなら遠目だとしても電灯で分かります。それに殺人現場は人通りがまったく無いといいきれる場所はありませんでした。深夜とは言え、酔っ払いしかいないとは言え一人二人は目撃してもおかしくない場所で彼は人を殺しているんです》
確かに…、確かにそう言われるとそうだ。奏の情報を頭の中で少しずつ咀嚼してゆく。

…何故?

その一言を口にしようとした瞬間、これまで凝縮されていた殺気が突然弾け飛び犯人は音もなく100m近く先の会社帰りであろう女性へ向かって走り出した。こっちからしてみると彼女は2、300mは離れている。
「まずい!奏ちゃん、話は後で!!」
《え、え?!》
「先に行く、後に来て棺凪くん」
いつの間にか地上から電柱へ移動した社長は少し力を溜めると文字通り飛んでいった。俺も持てる限りの力を入れて地面を駆ける。上条奏の話は頭の隅に引っ掛かったものの、被害を食い止めることの方が優先だった。

連続殺人事件最後の夜が始まる。

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